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 三河スターズ10期生

■それぞれの夏 - 2009夏
スターズを卒団し高校3年生となった10期生。それぞれの道を歩き、高校最後の夏を迎えた。
少年野球時代に夢見た高校野球を私の目で追ってみた。


-内山稜介の場合-
 全てが順風満帆だった。皆がそう思っていた、そう誰もが・・・。しかし、どこかで歯車が狂い始めていった。
 小学校3年生の時、内山と出会う。私がスターズというチームの監督を任された時、内山がいた。その時の印象は背が高くひょろっとした感じだった。だが、ボールを投げると速いボールを投げた。こいつをエースにしようと直に決めた。
 その頃、野村監督夫人のサッチーがテレビに出ていて、内山にウッチーと名付けたのも私だった。そこからピッチャーとしての長い英才教育が始まった。
 その当時、私も監督になって力が入っていた。負けるのが嫌だった。4年生になった頃から試合も少しずつ増え始めたが、なかなか思うようにいかなかった。ウッチーも球は速いがコントロールが悪かった。当然ウッチーには厳しくなり、ついつい手が出ることもあった。練習でも徹底的に走らせタイヤを引かせることもあった。それでもウッチーは泣き言を言わず私について来てくれた。それが嬉しかった。
 5年生になって、ウッチーも徐々にコントロールも良くなり中日少年ジュニアという大会で優勝した。その後も順調に育ち卒団した。ウッチーとの3年半は長いようで短かった。だが、いい思い出だった。
 中学に入り岩津中の兵藤先生と出会う。兵藤先生も熱心な先生で、ウッチーは2年生からエースで投げていた。スターズからも7人岩津中に入ったこともあり、県大会にも何度も出場した。そう、全てが順風満帆だった。皆がウッチーに期待した。
 しかし、悲劇は急に訪れる。3年生になる前の3月のことだった。県の選抜大会決勝で先発したウッチーは中盤、水越と交代する。信じがたい光景だった。
 実は大会前に肘を痛めていたらしい。思えば、小学校時代の5年生の5月に一度肘を痛めたことがあった。その後、私も気遣って投球数を制限したが、再発だったのだろう。兵藤先生も私もウッチーに期待し過ぎた反動が怪我となって跳ね返ってきたかもしれない。
 中学を卒業する前に見た時には、投げ方が悪くなりバランスを崩していた。高校はウッチーの希望もあり豊田西に行く。ピッチャーが駄目でも野手としては十分レギュラーになる選手だった。豊田西の平林監督もピッチャーとして使おうとしていた。しかし、サイドスローに変えられた。その後、外野手としても練習をしていたが、ボールを思うように投げられないイップスにもなっていたようだ。
 その後、監督とも合わなかったかもしれない。つらい思いもして、この夏が来た。ウッチーはベンチに入れず、裏方に回った。ウッチーの悔しい思いは分かっている。だが、今はノッカーとしてチームを支え甲子園を目指してほしい。
 3人の監督と出会い色々な経験もした。しかし、最後に私がウッチーに言いたいのは、「大学で勝負しろ。そして悔いを残さず現役を終え、ウッチーの夢であった野球の監督になればいい。そこには、高校では味わえなかった何かがあるはずだ。」ウッチーには、もう少し夢を追ってほしい。



-松浦圭祐の場合-
 鈍間な亀が成長し、放った一打は一生の思い出になるだろう!
 「下手くそ、しっかり捕れ」5年生の時だった。皆が休憩している間、グランドの片隅で一人別メニュー。私は手でボールを転がし捕球練習を繰り返した。それでもボールが手につかなかった。私は罵声を浴びせた。松浦は大きな目にいつも涙を浮かべていた。
 当時、松浦はセカンドの補欠だった。同じポジションには渡辺や上原といった私が見た中でも指折りの名手がいた。力は歴然としていた。ボールは捕れない、投げても猫投げ、走っても鈍間な亀だった。しかし、必死だった。私を見る目はいつも真剣だった。そんな、地道な努力が実を結び、松浦は少しずつ成長していた。
 6年生の冬、試合も残り少なくなって松浦は私に言った。「外野で試合に出して下さい」当時、私にそのようなことを言えるやつはいなかった。悲痛な思いだっただろう。実は私もそう思っていた。レギュラーは近かった。むしろ外野の選手よりも上手くなっていた。しかし、私は松浦に言った。「お前は中学で内野をやるんだろう、だったら内野で頑張れ!」松浦は残念そうだった。しかし、すぐに気持ちを入れ替えた様子で「ハイ」と返事を返した。松浦の両親は学校の先生。しっかり家庭で教育された子供だった。
 6年生最後の試合、私は松浦を外野で使った。松浦の悲痛な思いは分かっていた。試合の中盤、外野の浅いフライが飛んだ。ポテンヒットだと思った瞬間、松浦はダイビングキャッチ、ボールを捕った。会心の笑みでベンチに帰ってきた。努力が報われた、そう思った瞬間だった。
 卒団式の日、私は皆に手紙を渡した。松浦には、中学に行ってキャプテンを目指して頑張れと書いた。
 中学2年の夏、新チームになって松浦はキャプテンに任命された。他に上手い選手は沢山いた。しかし、その中で松浦が選ばれた。岩津中の兵藤先生も、あえて松浦を選んだ。ひたむきな野球への取り組みが評価されたと感じた。松浦はセカンドのレギュラーとなり、岩津中が優勝する度に優勝旗を手にした。野球だけでなく、生徒会長にも選ばれ充実した中学生活だった。
 高校は岡崎北に行った。実は、松浦の兄から野球のことで昔メールをもらったことがあった。兄は岡崎高校、野球好きで優秀な兄弟だった。私は、松浦が高校で野球を続けていることは知っていたが見る機会はなかった。
 ちょうど1年前、ある少年野球の開会式の後、隣の豊田市民球場に行った。たまたま、岡崎北の1回戦をやっていた。松浦はベンチの上で大きな声で応援していた。私は松浦に「頑張れよ」と声を掛けた。「ハイ」と返事が返ってきた。あの時と変わらない「ハイ」だった。
 それから1年が経ち最後の夏、岡崎北は1回戦で負けた。私はイチロー杯があり応援に行けなかったが、翌日の新聞で背番号11番ながら先発出場し2打数1安打ということを知った。即、電話をしてみた。お母さんから、3月頃から先発で出場していると教えてもらった。松浦に代わって話を聞いたが、センター前のクリーンヒットだと聞いた。「良かったな」と言ったら「ハイ」と答えてくれた。松浦が放った1本のヒットは一生の思い出になるだろう。
 実はこの試合、松浦は途中交代となったようだ。どうも顔面に死球を受けたとのこと。ボールに向かっていく、松浦らしい出来事だと思った。
 今後、松浦は両親のように先生を目指すのかもしれないが、きっと今までの経験を生かせるだろう。

背番号11番が松浦圭祐


-水越嘉久の場合-
 逆境が選手を変えた。そして最後の先発マウンドに立っていたのは水越だった!
 「狂牛病か!」と何度も罵った。ファーストのノックで少し横に振ると跪いてボールを上から押えていた。小学校5年生までの水越は背が高いだけの野球が下手な選手だった。
 それでも6年生になった頃、しなやかな腕の振りに興味を持ちピッチャーの練習をやらせてみると、まずまずのボールだった。しかし、ピッチャーゴロが捕れない、ランナーが出ると気になってしまう。全てにおいてウッチーに負けていて、公式戦に出たのは学童選手権1回戦の額田アトムズ戦だけだった。また、野手としての出番もほとんどなく、私が認めてくれないと親子共々思っていたにはずだ。事実、私も水越は小学生では無理だと思っていた。
 そんな水越は少年野球で、いい思い出がなく卒団した。しかし、いつかは私に認めてもらおう、見返してやろうと思っていたに違いない。いい意味での反骨心があった。
 中学に入ってからもウッチーがエースで水越の出番はなかった。ただ、ピッチャーとしての練習はしていた。それが、3年生になる頃からウッチーの肘の怪我もあって出番が多くなり、兵藤先生も思い切って水越を起用した。
 中学3年生の8月、中日少年の県大会に向けて練習をしていた頃、兵藤先生と相談し、私が教えた他の中学の選手を集め練習試合をやることにした。その時に先発した水越に完封負けした。いいボールを投げるようになっていた。ただ、自分のチームの選手がエラーをすると、その選手を責めた。それを見て「偉そうに言うなと」叱った。精神的にまだまだであった。
 中学を卒業し、県大会を見ていた高校時代に都城高で甲子園出場の経験もある星城高の山元監督の誘いを受け星城高に入学した。水越は明るい将来が見えていた。
 しかし、2年生になって山元監督が辞任。秋になって、2、3度あることで星城高を訪れた。この時、チームの異変に気がついた。2年生でグランドにいるのはごくわずか。水越もグランドの外にいた。キャプテンの美川クラブ出身の永田がスタッフに詰め寄っていた。監督交代でチームのゴタゴタはあるものだ。仕方ないと思っていた。最後に星城高を訪れた時に永田に「頑張れよ」と声を掛けた。
 だが、そのゴタゴタが長かったようだ。永田もキャプテンを外され、チームはバラバラになった。ようやく皆が帰ってきたのは、山元監督が復帰した今年の4月だった。水越や他のメンバーはその間、地道に自主トレなどで頑張った。
 そして夏、最後の先発マウンドに立っていたのは背番号1の水越だった。レフトに永田もいた。試合相手は岡崎商、互角とみた。スタンドには多くのスターズ関係者が応援に来ていた。水越は4回まで四球やエラーなどでランナーは出すものの無失点。水越はエラーをしても、手を挙げ選手に声を掛けた。精神的に成長していた。5回、ランナー1塁でセカンドゴロ。ダブルプレーでこの回も0点と思った瞬間、ダブルプレーを焦ったセカンドがエラー。この時もセカンドに手を挙げていた。
 しかし、ここは踏ん張れず、この後に連打やエラーなどで4失点。実践の少なさが明らかに出ていた。水越はこの回で降板。
 途中、両親も私の所に来てくれて話をした。大学でも野球を続けたいと言っていた。私のホームページを見て中部大に行きたいと言っていた。冗談でもそう言ってくれたのが嬉しかった。
 星城高は終盤に2点を返すも4対2で敗れた。永田もいい当たりが多かったが4打数0安打、星城高3年生の短い夏が終わった。
 星城高3年生は色々なことを勉強した。苦しみがあって、春から皆で野球がやれる楽しさを味わっただろう。ミスが多かったのは仕方ないが、精神的にチームはまとまっていた。
 水越も実力的にはまだまだでも精神的に大きく成長した。188センチ最速137キロは、未完のまま野球が終わるのか、大学で野球を続け花を咲かせるのか、決めるのは本人次第である。

5回ピンチの場面を迎える水越、左奥が永田


-江上祐貴の場合-
 笑顔の奥には真剣な野球への取り組みがあった。
 「Bコートに行け!」 ノックでミスを連発する江上に何度も言った。皆より遅く入団した江上は、外野のノックでポロリ、後方のフライは両手を上げてバンザイ。私は腰を2、3度振ってからスタートする仕草を真似て叱った。
 5年生の時、あまりの下手さに4年生が練習しているBコートへ行けと命じた。しかし、江上は泣くことがなかった。楽天的な性格だった。一人っ子にしては甘えた感じでもなく、エラーをしてもすぐに笑顔を取り戻すことの出きる不思議な選手だった。皆も江上には色々なことを言えるタイプで好まれていた。また、足は遅かったが水泳を習っていたこともあり長い距離を走らせるとにタフで速かった。
 6年生になって外野の守備も徐々に上手くなり、試合にも出るようになった。しかし、小学時代の江上の印象は、当たれば飛ぶぐらい。ある試合で中学で同僚だった高木投手から2本の外野オーバーのヒットを打ったのを覚えているが、それ以外はあまりいい印象はなかった。
 中学でも野球部に入ったが、やっぱり外野で下位を打つ選手だった。あまり変わっていないなあと感じた。江上は高校までは野球をやらないと思った。
 しかし、豊野高校に進学した江上は野球部に入った。スターズから中学も一緒だった同じ外野手の河野も豊野高校の野球部に入った。正直、高校に入った時に河野は野球を続けるが江上は高校では野球をやらないと思っていた。
 しかし立場は逆転した。高校2年生の途中で河野は進学の為に野球を断念した。残念だった。私は会社に行く途中に高校まで自転車で走る河野をよく見かけていたが、最近では見かけることはなかった。河野は野球をやめたが江上は続けた。
 そして最後の夏、1回戦は刈谷球場で刈谷高校との試合。刈谷は少年野球時代にライバルだったJSの伊奈が4番、美川クラブの近藤が5番。対する豊野は知っているのはエースの松岡が平山フレンターズでキャプテンがホワイトタイガース出身で江上と同じ岡崎北中だった高田。刈谷は強く力は一枚も二枚も刈谷が上は分かっていた。
 試合は1、2回と松岡投手が踏ん張るも3回にセカンドのエラーがきっかけで2点を先制される。その後、着実に得点を重ね7得点。特に伊奈は3安打、近藤は2安打でさすがによく打った。豊野の松岡投手も途中、脱水症状でけいれんを起こすが最後まで力投した。
 一方、江上の第1打席はランナーを1塁で1球目をセンターにクリーンヒット。両親も大喜びだった。2、3打席もいい当たりのセンターライナーだった。豊野は8回裏にノーアウト満塁から2点を返したが反撃及ばず7対2で敗退した。江上は9回裏、ノーアウトランナー1塁の場面で最終打席に思い切った見事な空振りの三振に倒れバットを地面に叩きつけようとしたが止まった。江上は4打数1安打ながら悔いのない高校野球を終えた。
 試合終了後、江上のお母さんは泣いていたが満足だっただろう。今から思うと途中からスターズに入り、あまり目立たない存在であったが江上の笑顔の奥には真剣な野球への取り組みがあった。
 また、この試合の応援に河野の姿もあった。

第3打席センターにいい当たりを放つ江上
 

-長谷田遼の場合-
 4回戦まで進出させた裏には控えとしてチームを支えた長谷田の姿があった。
 私が初めての監督を任されたのは思えば今から9年前の秋。その3週間後に3年生のオレンジボール大会が迫っていた。試合まで残された練習は土日合わせて4回。選手達は小学校3年生でまだキャッチボールぐらいしか出来ない状態だった。
 この状況でいきなり試合をやる為には、ボールがよく飛ぶところにボールが捕れる選手を起用しようと思い、ボールがよく行くファーストに長谷田を起用した。小学校3年生だった長谷田はゴロやフライや送球を捕るのが上手かった。
 長谷田はミスの少ない選手でスターズのレギュラーとして確固たる地位を築いていった。
 その後、卒団までずっとファーストを任せた。他のポジションも考えたがファーストが一番適任であった。また、お母さんは私と言い合うぐらいの方だったが、長谷田は真面目で忠実な性格、地味なタイプの選手だったが、堅守が売り物だった。
 長谷田は中学に入ってもファーストを続けていた。だが、バッティングを左に変えた。足は速い方だったので足を生かすのが目的だと思うが、決して器用なタイプではなかった。ある試合、ヒットでホームを狙った長谷田はホームのだいぶ手前でタッチアウト、打球を見ずに一目散にホームを目指していた。野球センスがありそうで意外とそうではなかった。
 中学卒業後、岡崎工業に進学する。私は陸上部に入ると思っていたが野球部に入部した。高校に入った長谷田は外野にポジションが変わった。7年間ファーストだった選手がようやく違うポジションに付いた。その後、野球部で頑張っているとの情報が入ってきていた。
 そして最後の夏、長谷田はベンチにいた。1回戦の岡崎高戦、岡崎工業のバッテリーは矢作中出身の選手で、岡崎の選手が中心だった。試合は3対1で勝利し、特にショートの三浦君は潜在能力が高いと見た。この試合、長谷田の出番はなかった。
 しかし、長谷田は外野手とキャッチボールをしたりキャッチャーの道具をつけたりと自分の仕事をきちっとやっていた。真面目で忠実な性格は変わっていなかった。1回戦終了後、私は長谷田に電話をしてみた。「頑張れよ」と言った。
 2回戦は大府東に8対1、3回戦は碧南工業に9対5で勝利し4回戦に進出した。そして最後の試合、愛知啓成に3対9で破れ長谷田は出番がなく最後の夏を終えた。しかし、岡崎工業を4回戦まで進出させた裏には控えとしてチームを支えた長谷田の姿があった。
 
 左から2番目が長谷田


-加藤成人の場合-
 成長した姿の裏には、少年野球時代のミスの怖さ、中学での我慢、高校でのライバル上原の存在があった。
 小学校4年生の秋、チームは厳しかった吉田杯を終えめだかリーグ戦を迎える頃に二人の選手が入団した。その一人が成人だった。成人は既にキャッチボールが出来る選手でグラブさばきが上手かった。私は、成人をすぐにめだかリーグ戦で使った。
 6年生になる前に内野を入れ替え成人をショートにコンバートした。決して足は速くなかったが、上手いグラブさばきでゴロを難なく処理していた。
 6年生の秋、美川クラブとのロータリー杯の試合。相手は、ピッチャー本間(至学館)、キャッチャー加藤、ファースト近藤(刈谷)、ショート永田(星城)とタレント揃いだった。美川クラブは夏の県選手権の決勝で逆転負けを屈しているだけに是が非でも勝ちたい相手だった。
 試合は1点リードのまま最終回を迎えた。先頭打者が強いサードゴロ、これを白井がトンネル、続くショートゴロのダブルプレーコースを成人が2塁に入った渡辺に悪送球。成人のエラーは少なかったが今でも鮮明に覚えている右側に逸れた送球だった。
 その後、試合は1アウト2、3塁から内野ゴロの間に1点を取られ1対1の引き分けで美川クラブに勝利することは出来なかった。しかし、ロータリーのブロックでは1位で、決勝は岡崎南クラブの村瀬(享栄)に抑えられ準優勝だった。
 成人は守備のいいスターズのショートとしてスターズを卒団した。だが私は厳しかった吉田杯を経験せずにすぐレギュラーを獲得して卒団した成人を心配した。このままで成人はいいのだろうかと・・・。
 中学では学校の考え方もあり、成人は上手くても2年生まで補欠だった。同じ2年で成人より劣る選手が出ていたこともあり、成人はなげやりな所もあった。心配が的中した。但し、親が中等部の監督ということで何とか我慢した。
 高校は愛産大三河に進学した。スターズで同僚だった上原と一緒で一般で入学。上原は大丈夫だと思っていたが成人は最後まで続くかどうか心配だった。しかし、高校に入って6センチぐらい身長が伸びて180センチ近くまで大きくなった。2年生の秋頃までは控えだったが、3年生の春からレギュラーを獲得した。
 そして最後の夏、愛産大三河はシードで3回戦からの登場であり三谷水産に5対0で勝利、4回戦は成人も最後に三遊間を破るタイムリーを放ち一宮工に8対0で勝利した。この試合、サードの成人は三遊間のゴロを2度するどく切れ込み処理し動きも良かった。
 5回戦、これに勝てば準々決勝進出となる高蔵寺戦。初回1アウト満塁からサードゴロを成人がセカンドゲッツーかベースを踏んで1塁に送球か、一瞬ためらった感じがあり捕球ミスで走ってきたランナーにタッチしたものの1点を先制される。しかし、その後の成人は打球を上手く処理していた。
 愛産大三河は疲れの見える高蔵寺の投手であったがタイミングが合わず8回まで無得点。成人もランナーを置いた場面で詰まった打球が多く3打数でヒットは出なかった。逆に高蔵寺は終盤にもしぶとく得点し3対0で最終回を迎える。
 この回、代わった抑え投手から先頭打者がツーベースを放ち反撃ムード。その後、ランナーを出しライト前ヒットで1点を返し2アウト満塁。しかし、最終打者がセカンドゴロに倒れ、次打者の成人の前で試合は終了した。
 成人は最後の夏、5回戦敗退ながらも成長した姿を見せた。その裏には、少年野球時代のミスの怖さ、中学での我慢、高校でのライバル上原の存在があった。



-上原規秀の場合-
 あのプレーは今でも目に焼きついている最高のスーパープレーだった。
 4年生の練習でボールの投げ方がいい選手を目にした。スターズの4年生以下は合同練習。皆を集め見本にさせた。その選手が上原だった。
 それまでの上原は、背が2、3番目に小さく、話し声もあまり聞いたことがないおとなし性格だった。事実、3年生のオレンジボール大会では外野で交代で出るぐらいの選手だった。そんな選手がここまで成長するとは誰も想像しなかった。
 4年生のある練習後、上原の異変に気が付いた。夜、お母さんに電話してみるとやはりそうだった。私へのあまりの怖さに円形脱毛症になっていた。私は一度も上原に手や足が出ることはなかったが、他の選手が叱られているのを見て怖かったようだ。上原は相手を思いやれる選手でもあった。
 上原は5年生になって、セカンドのポジションを獲得した。5年生の秋、ゲオ杯3回戦で松平ニューボーイズと対戦した。松平ニューボーイズは1年前の吉田杯でウッチーはいないものの32対0という屈辱的な大敗を屈している相手、現中京大中京捕手の磯村君も1年下ながら5年生のチームにいた。
 試合はスターズのリードであったが終盤に審判の大誤審もあり同点のまま延長サドンデスへ。8回表ノーアウト満塁から前進守備のセカンド後方にフラフラと上がったフライを上原が背走。最後は距離感が合わず腰が伸びきったような形でキャッチ。
 10年間私が監督をやっている中での1番のスーパープレーだった。試合は、その裏スターズがサヨナラ勝ちし、1年前の大敗後に豊田から走って帰ってきた努力が実った試合であった。
 6年生になって上原はサードにコンバート。その後、白井の肩痛もあり最後はキャッチャーもこなした。どこをやっても一番安定して期待通りの働きをした。また、上原は午後から練習が休みになると体を休め昼寝をしていた。そのこともあったのか下から2、3番目だった身長は上から3番目に大きくなり卒団した。
 中学時代の上原もウッチーの女房役として数々のタイトルを手にした。上原は野球好きで普段はおとなしいが野球になると積極的で目立つようになってきた。
 高校は成人と同じ愛産大三河に進学した。上原は当然レギュラーをとると思っていた。だが上原の噂はあまり聞かなくなった。小学、中学で燃え尽きたのか心配した。
 今年の5月、練習試合を見に行くと上原がいた。帽子をとってニコッと挨拶してくれた。昔の印象のままで笑顔のいい上原で嬉く元気そうなのでほっとして帰った。
 そして最後の夏、愛産大三河の4回戦と5回戦を応援に行った。上原はスタンドで試合を見ながら応援していた。愛産大三河は5回戦で破れ上原の夏も終わった。
 思えば、早熟だったかもしれない。その為、私立の高校では試合に出られなかったが、私の中では一番頼りになった選手に違いはなく、あのプレーは今でも目に焼きついている最高のスーパープレーだった。



-番外編-
 第51回全国高校野球選手権大会愛知予選は中京大中京の優勝で幕を閉じた。中京大中京は決勝以外が全てコールド勝ちという圧倒的な力の差を見せつけた。特に6試合64得点と1試合10点以上奪った打線は甲子園でも十分戦える。逆に投手力はエース堂林がどこまで回復し他の投手陣との継投が上手くいくかが上位進出のカギとなりそう。
 また、クジ運もあったが刈谷が決勝まで進出、ベスト8には他に豊田西、高蔵寺が入り公立高の頑張りが目立った大会でもあった。
 その中で、スターズOBは7人が最後の夏を迎え、その中で4人が4回戦以上に進出し甲子園を目指して最後まで頑張った。私自身、高校時代は春に優勝があるものの夏と秋に決勝で負け甲子園に一歩届かず、その夢をスターズOBに託した。残念ながら、その夢は次へと持ち越されたが、3年間甲子園を目指して頑張ったこの経験は一生の思い出になるだろう。
 思えば今から9年前の小学3年生の秋に一緒に始まった少年野球だったが、厳しく辛い練習に絶え13名が卒団。全員が中学で野球を続け、岩津中に進んだ内山、水越、上原、長谷田、松浦、渡辺、加藤の7名は県大会準優勝の経験も味わった。
 その後、12名の中で白井はソフトボール、加藤は陸上に河合はテニス転向するなど4名は中学で野球を終えたが、9名は甲子園を夢見て高校に進学した。高校入学後は渡辺が1年で野球を断念、河野も進学の為2年で野球を辞めたものの13名中、7名は高校まで野球を続けてくれたことが、私の誇りであり選手それぞれに感謝している。
 また、7名の応援には河野や白井なども駆けつけるなど、共に力を合わせて頑張った仲間達の姿もあり、5試合を観戦した私も、選手をみる度にスターズ時代の様々な思い出が蘇ったそれぞれの夏だった。


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